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第二章:川辺の少年

Auteur: 佐薙真琴
last update Date de publication: 2025-11-28 06:01:04

一、出会い

 翌日の午後、健太は村を探検することにした。

 祖母に「川には気をつけるんだよ」と言われながら、麦わら帽子をかぶって外に出た。八月の太陽は容赦なく照りつけ、アスファルトが揺らめいて見える。でも木陰に入ると嘘のように涼しかった。

 村は思ったより小さかった。商店が二軒、小さな郵便局、神社、寺。あとはほとんど田んぼと畑と民家。でも健太には新鮮だった。すべてが東京と違っていた。

 田んぼの畦道を歩いていくと、やがて川に出た。それほど大きくない川だったが、水は透き通っていて底の石まではっきり見える。川辺には柳の木が並び、その影が水面に揺れていた。

 健太は川辺に座って、流れる水を見つめた。水の流れを見ているとなぜか心が落ち着く。古代ギリシャの哲学者ヘラクレイトスは言った。「人は同じ川に二度入ることはできない」と。川は常に流れ、変化している。同じように見えても、もう同じ水ではない。時間もそうなのかもしれない。

 その時だった。

「何してんの」

 声がして振り返ると、同い年くらいの少年が立っていた。

 日に焼けた肌、少し長めの黒い髪。白いシャツに半ズボン、裸足。どこか懐かしいような、初めて会ったような不思議な感覚だった。

「君、東京から来た子でしょ」

「……うん」

「知ってる。おばあちゃんの家に来てるんだよね。俺、遼」

 少年——遼は川に石を投げた。石は水面を三回跳ねて、向こう岸近くで沈んだ。

「この村のこと、俺が教えてあげるよ」

 遼は振り返って笑った。その笑顔がなぜか夢で見たことがあるような気がした。でも夢の内容は思い出せない。

「俺、健太」

「健太ね。よろしく」

 遼は手を差し出した。健太はその手を握った。遼の手は温かくて、確かにそこにあった。

「今から面白い場所に連れてってあげる。ついてきて」

 健太は少し躊躇したが、遼の笑顔を見ているとなぜか信じられる気がした。二人は川沿いの道を歩き始めた。

「この村好き?」

 遼が聞いた。

「まだよくわかんない。昨日来たばっかりだから」

「そっか。でもすぐ好きになるよ。この村はいいところだから」

 遼の言い方には不思議な確信があった。まるでこの村のすべてを知っているような口ぶりだった。

「遼はずっとこの村にいるの?」

「ずっといるよ。生まれてからずっと」

「学校は?」

「……学校ね」

 遼は少し考えるような表情をして、それから笑った。

「夏休みだから関係ないでしょ」

 確かにそうだった。健太は何か引っかかるものを感じたが、すぐに忘れた。

 二人は山道を登っていった。木々が道の両側に茂り、木漏れ日が地面に模様を作っている。蝉の声が頭上から降ってくる。

「あと少しだよ」

 遼が振り返って言った。その顔は汗をかいているのに、疲れた様子がない。

 やがて木々が開けて、小さな滝が現れた。

「すごい……」

 健太は思わず声を上げた。

 それは絵のような光景だった。高さ五メートルほどの滝が、岩肌を流れ落ちている。滝壺の水は信じられないほど澄んでいて、底まで見える。周りは木々に囲まれていて、まるで隠された楽園のようだった。

「ここ、俺だけの秘密の場所だったんだ。でも健太には教えてあげる」

 遼はそう言って、服のまま水に入っていった。

「冷たいぞー! でも気持ちいい!」

 健太も服のまま水に入った。水は冷たくて、一瞬息が止まった。でもすぐに体が慣れて、心地よさに変わった。

 二人は水をかけ合って遊んだ。笑い声がこだまする。木漏れ日が水面にきらめき、まるで宝石を散りばめたようだった。

 この瞬間、健太は両親のことも、東京のことも、すべて忘れていた。ただ今この瞬間だけがあった。

「健太、目つぶって」

 言われるままに目を閉じると、水の音だけが聞こえた。遠くで鳥が鳴いている。風が木々を揺らす音。自分の呼吸の音。

「今、何が見える?」

「……何も見えないよ、目つぶってるんだから」

「違う。目を閉じてるときにだけ見えるものがあるんだ」

 目を閉じたまま、健太は意識を集中した。すると不思議なことに、瞼の裏に光が見えた。それは太陽の光ではなく、もっと淡い月のような光だった。そしてその光の中に、何かの形が浮かび上がってくる。

「見えた?」

 目を開けると、遼が不思議な表情で笑っていた。

「これからもっといろんなもの見せてあげるよ。この村にはまだまだ秘密がたくさんあるんだ」

二、夏休みの日々

 それから健太と遼は毎日のように一緒に過ごした。

 遼はこの村のすべてを知っていた。魚がよく釣れる場所、カブトムシが集まる木、誰も知らない洞窟、甘い木の実がなる場所。健太は遼の後をついて歩きながら、少しずつこの村が好きになっていった。

 ある日、二人は村の裏山に登った。頂上からは村全体が見渡せた。田んぼの緑、家々の屋根、蛇行する川。そのすべてが山々に抱かれるように存在していた。

「きれいでしょ」

 遼が言った。

「この景色、何年見ても飽きないんだ」

「何年って、遼まだ子供じゃん」

 遼は不思議な表情をした。

「そうだね。でも……なんだろう、ずっと昔から知ってるような気がするんだ、この景色を」

 健太にはその感覚がわかる気がした。自分もこの景色に既視感を覚えていた。

「なあ遼、デジャヴュって知ってる?」

「なにそれ?」

「見たことないのに、見たことがある気がする現象」

「ああ、それ」

 遼は草を一本抜いて口に咥えた。

「俺いつもそうなんだ。この村のいろんな場所で、前に来たことがあるような気がする。でも実際に来たことないこともある」

「不思議だね」

「うん。でもこの村では不思議なことが普通なんだ」

 二人は午後の太陽の下、草の上に寝転がった。空には入道雲が浮かんでいる。雲は常に形を変えながら、ゆっくりと流れていく。

「健太は東京に帰りたくない?」

 遼が聞いた。

「……わかんない」

 正直な気持ちだった。最初は帰りたかった。でも今は、この村での日々が心地よかった。

「俺は健太にずっといてほしいな」

 遼の声は少し寂しそうだった。

「でも夏が終わったら、帰らなきゃいけないんでしょ」

「うん」

「そっか」

 遼は空を見上げたまま何も言わなかった。雲の影が二人の上を通り過ぎていった。

 時間の感覚が不思議だった。この村では一日が果てしなく長く感じられた。朝起きてから夜寝るまで、無限に時間があるようだった。東京にいた頃は一日があっという間だった。塾に行って帰ってきて宿題をして寝る。その繰り返しで気づいたら季節が変わっていた。

 でもこの村では違った。蝉の声を聞きながら昼寝をして、起きたらまだ昼で、それから遼と遊んで、夕焼けを見て、夜は星を見て。一日が一週間分くらいの密度を持っていた。

 アインシュタインの相対性理論によれば、時間は相対的なものだ。観測者の状態によって時間の流れ方は変わる。高速で動いているものにとって時間はゆっくり流れる。強い重力場の中では時間はゆっくり流れる。そして——幸せな時間は早く過ぎ、退屈な時間は遅く流れる。これは物理的な相対性ではなく、心理的な相対性だ。

 この村での時間は、健太にとって特別な時間だった。だから密度が濃かった。だから一日が長く感じられた。

「なあ遼、なんでこの村では時間がゆっくり流れるんだろう」

 夕暮れの丘に寝転がりながら健太は聞いた。

「大人は時間を時計で測るけど、子どもは時間を体で感じるからじゃないかな」

 遼は草を一本抜いて口に咥えた。

「俺たちにはまだ時計の時間じゃなくて、夏の時間が流れてるんだよ」

 健太にはその意味が少しだけわかる気がした。

 夕焼けが空を染めていく。オレンジから赤へ、そして紫へ。グラデーションのように色が変わっていく。雲が金色に輝いている。

「きれいだね」

 健太が言うと、遼は笑った。

「健太は素直だね。いいと思ったことをちゃんと言えるんだ」

「遼だって言うじゃん」

「俺は……」

 遼は言葉を探すように空を見つめた。

「俺は昔からそうだったわけじゃないんだ。でも気づいたんだよ。きれいなものを見たときに『きれい』って言わないと、その美しさが消えちゃうような気がして」

 健太は遼の横顔を見た。夕焼けに照らされて、遼の顔が金色に輝いている。

「遼は不思議なこと言うね」

「そう?」

「うん。でも……わかる気がする」

 二人は黙って夕焼けを見ていた。やがて太陽が山の向こうに沈み、空が紺色に変わっていく。最初の星が現れる。

「帰ろうか」

 遼が立ち上がった。健太もそれに続く。

 帰り道、遼が突然立ち止まった。

「なあ健太、約束してくれる?」

「何を?」

「夏が終わっても、俺のこと忘れないって」

 その言い方に、何か切迫したものがあった。

「当たり前じゃん。忘れるわけないよ」

「本当?」

「本当だよ。遼は俺の初めての友達なんだから」

 初めての友達——その言葉を口にして、健太はそれが真実だと気づいた。東京には同級生がいたが、本当の意味での友達はいなかった。でも遼は違った。遼と一緒にいると、自分が自分でいられる気がした。

「ありがとう」

 遼は微笑んだ。でもその笑顔は、どこか悲しげだった。

三、時間の狭間で

 八月も半ばに差し掛かった頃、健太は不思議な経験をするようになった。

 夢と現実の境目が曖昧になってきたのだ。

 昼間遼と遊んでいるとき、ふと「これは夢ではないか」と思う瞬間がある。あまりにも美しすぎる風景、あまりにも楽しすぎる時間。まるで作り物のような完璧さ。

 逆に夜見る夢があまりにも鮮明で、現実のように感じられることもあった。夢の中で遼と話している。その会話は昼間の続きのようで、朝目覚めたとき、どこまでが現実でどこからが夢だったのかわからなくなる。

 ある日、健太は祖母に聞いた。

「おばあちゃん、夢と現実の違いって何?」

 祖母は手を止めて、健太を見た。

「どうしたの、急に」

「なんか……最近よくわからなくなるんだ」

 祖母は少し考えてから答えた。

「昔からこの村では言うのよ。お盆の時期は境界が曖昧になるって。生きてる人と死んでる人、現実と夢、過去と現在。すべての境目が溶けていくの」

「それって本当にあるの?」

「信じる人には本当で、信じない人には嘘。でもね、健太くん」

 祖母は優しく微笑んだ。

「大切なのは本当か嘘かじゃなくて、その経験が心に何を残すかなのよ」

 健太にはまだその意味が完全にはわからなかった。でも何か大切なことを言われている気がした。

 その夜、健太は蛍を見に行った。遼に誘われて、夕食後にこっそり家を抜け出したのだ。

 田んぼの間を流れる小川に、無数の蛍が飛んでいた。明滅する淡い光が水面に映り、まるで空に星が二つあるようだった。

「きれいだろ」

 遼の声が遠くから聞こえるようだった。

 蛍の光の中で、健太は不思議な感覚に襲われた。自分がここにいるのか、夢の中にいるのかわからなくなった。蛍の光が自分の体を通り抜けていくような気がした。

「遼……」

 振り返ると、遼の姿がかすんで見えた。蛍の光の中に溶けていくように。

「遼!」

 健太は思わず叫んだ。目を凝らすと、遼はちゃんとそこにいた。いつものように笑っている。

「どうした?」

「いや……なんでもない」

 健太は首を振った。きっと光が目に焼きついたせいだと思った。でも心の奥で、何か大切なことに気づきかけている気がした。

「蛍ってすごいよね」

 遼が言った。

「あんな小さな体で、光を作り出せるんだ。ルシフェリンっていう物質が酸化するときに光が出るんだって」

「詳しいね」

「本で読んだんだ。でもね、なんで光るのかって考えたことある?」

「求愛のためでしょ」

「そう。でも俺はもっと違う理由があると思うんだ」

 遼は蛍を見つめながら続けた。

「蛍は自分が光ることで、闇の中の自分の存在を証明してるんだよ。『俺はここにいる』って。光は存在の証明なんだ」

 健太は黙って聞いていた。遼の言葉にはいつも、何か深い意味が隠されている気がした。

「人間もそうかもしれないね。誰かの記憶の中で光り続けることで、死んだ後も存在し続けられる」

「遼、なんでそんなこと考えるの?」

「わかんない。でも……」

 遼は健太を見た。その目には、言葉にできない何かがあった。

「でも、大切なことだと思うんだ」

 二人は蛍の光の中を歩いて帰った。光が二人を包み込み、まるで別の世界を歩いているようだった。

 その夜、健太は夢を見た。

 夢の中で、自分が大人になっていた。同じ川辺に立って、同じ蛍を見ている。でも隣には誰もいない。ただ蛍の光だけが、淡く明滅している。

 そして一つの光が、他の光と違って見えた。それは遼の笑顔のように温かく、遼の声のように優しく瞬いていた。

 健太は夢の中で泣いていた。なぜ泣いているのかわからないまま。

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