LOGIN翌日の午後、健太は村を探検することにした。
祖母に「川には気をつけるんだよ」と言われながら、麦わら帽子をかぶって外に出た。八月の太陽は容赦なく照りつけ、アスファルトが揺らめいて見える。でも木陰に入ると嘘のように涼しかった。
村は思ったより小さかった。商店が二軒、小さな郵便局、神社、寺。あとはほとんど田んぼと畑と民家。でも健太には新鮮だった。すべてが東京と違っていた。
田んぼの畦道を歩いていくと、やがて川に出た。それほど大きくない川だったが、水は透き通っていて底の石まではっきり見える。川辺には柳の木が並び、その影が水面に揺れていた。
健太は川辺に座って、流れる水を見つめた。水の流れを見ているとなぜか心が落ち着く。古代ギリシャの哲学者ヘラクレイトスは言った。「人は同じ川に二度入ることはできない」と。川は常に流れ、変化している。同じように見えても、もう同じ水ではない。時間もそうなのかもしれない。
その時だった。
「何してんの」
声がして振り返ると、同い年くらいの少年が立っていた。
日に焼けた肌、少し長めの黒い髪。白いシャツに半ズボン、裸足。どこか懐かしいような、初めて会ったような不思議な感覚だった。
「君、東京から来た子でしょ」
「……うん」
「知ってる。おばあちゃんの家に来てるんだよね。俺、遼」
少年——遼は川に石を投げた。石は水面を三回跳ねて、向こう岸近くで沈んだ。
「この村のこと、俺が教えてあげるよ」
遼は振り返って笑った。その笑顔がなぜか夢で見たことがあるような気がした。でも夢の内容は思い出せない。
「俺、健太」
「健太ね。よろしく」
遼は手を差し出した。健太はその手を握った。遼の手は温かくて、確かにそこにあった。
「今から面白い場所に連れてってあげる。ついてきて」
健太は少し躊躇したが、遼の笑顔を見ているとなぜか信じられる気がした。二人は川沿いの道を歩き始めた。
「この村好き?」
遼が聞いた。
「まだよくわかんない。昨日来たばっかりだから」
「そっか。でもすぐ好きになるよ。この村はいいところだから」
遼の言い方には不思議な確信があった。まるでこの村のすべてを知っているような口ぶりだった。
「遼はずっとこの村にいるの?」
「ずっといるよ。生まれてからずっと」
「学校は?」
「……学校ね」
遼は少し考えるような表情をして、それから笑った。
「夏休みだから関係ないでしょ」
確かにそうだった。健太は何か引っかかるものを感じたが、すぐに忘れた。
二人は山道を登っていった。木々が道の両側に茂り、木漏れ日が地面に模様を作っている。蝉の声が頭上から降ってくる。
「あと少しだよ」
遼が振り返って言った。その顔は汗をかいているのに、疲れた様子がない。
やがて木々が開けて、小さな滝が現れた。
「すごい……」
健太は思わず声を上げた。
それは絵のような光景だった。高さ五メートルほどの滝が、岩肌を流れ落ちている。滝壺の水は信じられないほど澄んでいて、底まで見える。周りは木々に囲まれていて、まるで隠された楽園のようだった。
「ここ、俺だけの秘密の場所だったんだ。でも健太には教えてあげる」
遼はそう言って、服のまま水に入っていった。
「冷たいぞー! でも気持ちいい!」
健太も服のまま水に入った。水は冷たくて、一瞬息が止まった。でもすぐに体が慣れて、心地よさに変わった。
二人は水をかけ合って遊んだ。笑い声がこだまする。木漏れ日が水面にきらめき、まるで宝石を散りばめたようだった。
この瞬間、健太は両親のことも、東京のことも、すべて忘れていた。ただ今この瞬間だけがあった。
「健太、目つぶって」
言われるままに目を閉じると、水の音だけが聞こえた。遠くで鳥が鳴いている。風が木々を揺らす音。自分の呼吸の音。
「今、何が見える?」
「……何も見えないよ、目つぶってるんだから」
「違う。目を閉じてるときにだけ見えるものがあるんだ」
目を閉じたまま、健太は意識を集中した。すると不思議なことに、瞼の裏に光が見えた。それは太陽の光ではなく、もっと淡い月のような光だった。そしてその光の中に、何かの形が浮かび上がってくる。
「見えた?」
目を開けると、遼が不思議な表情で笑っていた。
「これからもっといろんなもの見せてあげるよ。この村にはまだまだ秘密がたくさんあるんだ」
それから健太と遼は毎日のように一緒に過ごした。
遼はこの村のすべてを知っていた。魚がよく釣れる場所、カブトムシが集まる木、誰も知らない洞窟、甘い木の実がなる場所。健太は遼の後をついて歩きながら、少しずつこの村が好きになっていった。
ある日、二人は村の裏山に登った。頂上からは村全体が見渡せた。田んぼの緑、家々の屋根、蛇行する川。そのすべてが山々に抱かれるように存在していた。
「きれいでしょ」
遼が言った。
「この景色、何年見ても飽きないんだ」
「何年って、遼まだ子供じゃん」
遼は不思議な表情をした。
「そうだね。でも……なんだろう、ずっと昔から知ってるような気がするんだ、この景色を」
健太にはその感覚がわかる気がした。自分もこの景色に既視感を覚えていた。
「なあ遼、デジャヴュって知ってる?」
「なにそれ?」
「見たことないのに、見たことがある気がする現象」
「ああ、それ」
遼は草を一本抜いて口に咥えた。
「俺いつもそうなんだ。この村のいろんな場所で、前に来たことがあるような気がする。でも実際に来たことないこともある」
「不思議だね」
「うん。でもこの村では不思議なことが普通なんだ」
二人は午後の太陽の下、草の上に寝転がった。空には入道雲が浮かんでいる。雲は常に形を変えながら、ゆっくりと流れていく。
「健太は東京に帰りたくない?」
遼が聞いた。
「……わかんない」
正直な気持ちだった。最初は帰りたかった。でも今は、この村での日々が心地よかった。
「俺は健太にずっといてほしいな」
遼の声は少し寂しそうだった。
「でも夏が終わったら、帰らなきゃいけないんでしょ」
「うん」
「そっか」
遼は空を見上げたまま何も言わなかった。雲の影が二人の上を通り過ぎていった。
時間の感覚が不思議だった。この村では一日が果てしなく長く感じられた。朝起きてから夜寝るまで、無限に時間があるようだった。東京にいた頃は一日があっという間だった。塾に行って帰ってきて宿題をして寝る。その繰り返しで気づいたら季節が変わっていた。
でもこの村では違った。蝉の声を聞きながら昼寝をして、起きたらまだ昼で、それから遼と遊んで、夕焼けを見て、夜は星を見て。一日が一週間分くらいの密度を持っていた。
アインシュタインの相対性理論によれば、時間は相対的なものだ。観測者の状態によって時間の流れ方は変わる。高速で動いているものにとって時間はゆっくり流れる。強い重力場の中では時間はゆっくり流れる。そして——幸せな時間は早く過ぎ、退屈な時間は遅く流れる。これは物理的な相対性ではなく、心理的な相対性だ。
この村での時間は、健太にとって特別な時間だった。だから密度が濃かった。だから一日が長く感じられた。
「なあ遼、なんでこの村では時間がゆっくり流れるんだろう」
夕暮れの丘に寝転がりながら健太は聞いた。
「大人は時間を時計で測るけど、子どもは時間を体で感じるからじゃないかな」
遼は草を一本抜いて口に咥えた。
「俺たちにはまだ時計の時間じゃなくて、夏の時間が流れてるんだよ」
健太にはその意味が少しだけわかる気がした。
夕焼けが空を染めていく。オレンジから赤へ、そして紫へ。グラデーションのように色が変わっていく。雲が金色に輝いている。
「きれいだね」
健太が言うと、遼は笑った。
「健太は素直だね。いいと思ったことをちゃんと言えるんだ」
「遼だって言うじゃん」
「俺は……」
遼は言葉を探すように空を見つめた。
「俺は昔からそうだったわけじゃないんだ。でも気づいたんだよ。きれいなものを見たときに『きれい』って言わないと、その美しさが消えちゃうような気がして」
健太は遼の横顔を見た。夕焼けに照らされて、遼の顔が金色に輝いている。
「遼は不思議なこと言うね」
「そう?」
「うん。でも……わかる気がする」
二人は黙って夕焼けを見ていた。やがて太陽が山の向こうに沈み、空が紺色に変わっていく。最初の星が現れる。
「帰ろうか」
遼が立ち上がった。健太もそれに続く。
帰り道、遼が突然立ち止まった。
「なあ健太、約束してくれる?」
「何を?」
「夏が終わっても、俺のこと忘れないって」
その言い方に、何か切迫したものがあった。
「当たり前じゃん。忘れるわけないよ」
「本当?」
「本当だよ。遼は俺の初めての友達なんだから」
初めての友達——その言葉を口にして、健太はそれが真実だと気づいた。東京には同級生がいたが、本当の意味での友達はいなかった。でも遼は違った。遼と一緒にいると、自分が自分でいられる気がした。
「ありがとう」
遼は微笑んだ。でもその笑顔は、どこか悲しげだった。
八月も半ばに差し掛かった頃、健太は不思議な経験をするようになった。
夢と現実の境目が曖昧になってきたのだ。
昼間遼と遊んでいるとき、ふと「これは夢ではないか」と思う瞬間がある。あまりにも美しすぎる風景、あまりにも楽しすぎる時間。まるで作り物のような完璧さ。
逆に夜見る夢があまりにも鮮明で、現実のように感じられることもあった。夢の中で遼と話している。その会話は昼間の続きのようで、朝目覚めたとき、どこまでが現実でどこからが夢だったのかわからなくなる。
ある日、健太は祖母に聞いた。
「おばあちゃん、夢と現実の違いって何?」
祖母は手を止めて、健太を見た。
「どうしたの、急に」
「なんか……最近よくわからなくなるんだ」
祖母は少し考えてから答えた。
「昔からこの村では言うのよ。お盆の時期は境界が曖昧になるって。生きてる人と死んでる人、現実と夢、過去と現在。すべての境目が溶けていくの」
「それって本当にあるの?」
「信じる人には本当で、信じない人には嘘。でもね、健太くん」
祖母は優しく微笑んだ。
「大切なのは本当か嘘かじゃなくて、その経験が心に何を残すかなのよ」
健太にはまだその意味が完全にはわからなかった。でも何か大切なことを言われている気がした。
その夜、健太は蛍を見に行った。遼に誘われて、夕食後にこっそり家を抜け出したのだ。
田んぼの間を流れる小川に、無数の蛍が飛んでいた。明滅する淡い光が水面に映り、まるで空に星が二つあるようだった。
「きれいだろ」
遼の声が遠くから聞こえるようだった。
蛍の光の中で、健太は不思議な感覚に襲われた。自分がここにいるのか、夢の中にいるのかわからなくなった。蛍の光が自分の体を通り抜けていくような気がした。
「遼……」
振り返ると、遼の姿がかすんで見えた。蛍の光の中に溶けていくように。
「遼!」
健太は思わず叫んだ。目を凝らすと、遼はちゃんとそこにいた。いつものように笑っている。
「どうした?」
「いや……なんでもない」
健太は首を振った。きっと光が目に焼きついたせいだと思った。でも心の奥で、何か大切なことに気づきかけている気がした。
「蛍ってすごいよね」
遼が言った。
「あんな小さな体で、光を作り出せるんだ。ルシフェリンっていう物質が酸化するときに光が出るんだって」
「詳しいね」
「本で読んだんだ。でもね、なんで光るのかって考えたことある?」
「求愛のためでしょ」
「そう。でも俺はもっと違う理由があると思うんだ」
遼は蛍を見つめながら続けた。
「蛍は自分が光ることで、闇の中の自分の存在を証明してるんだよ。『俺はここにいる』って。光は存在の証明なんだ」
健太は黙って聞いていた。遼の言葉にはいつも、何か深い意味が隠されている気がした。
「人間もそうかもしれないね。誰かの記憶の中で光り続けることで、死んだ後も存在し続けられる」
「遼、なんでそんなこと考えるの?」
「わかんない。でも……」
遼は健太を見た。その目には、言葉にできない何かがあった。
「でも、大切なことだと思うんだ」
二人は蛍の光の中を歩いて帰った。光が二人を包み込み、まるで別の世界を歩いているようだった。
その夜、健太は夢を見た。
夢の中で、自分が大人になっていた。同じ川辺に立って、同じ蛍を見ている。でも隣には誰もいない。ただ蛍の光だけが、淡く明滅している。
そして一つの光が、他の光と違って見えた。それは遼の笑顔のように温かく、遼の声のように優しく瞬いていた。
健太は夢の中で泣いていた。なぜ泣いているのかわからないまま。
一、残された日々 真実を知ってから、健太と遼の時間はより濃密なものになった。 二人は村中を駆け回った。まだ行ったことのない場所、まだ見たことのない風景、まだ経験したことのないすべてを求めて。 山の奥深くに分け入って、誰も知らない渓谷を見つけた。滝の裏側に回り込んで、水のカーテンの向こう側から世界を見た。夜明け前に起きて、朝日が山の端から昇る瞬間を見た。 すべてが特別だった。最後になるかもしれないから。 ある日、遼が言った。「健太、俺の話聞いてくれる?」 二人は例の丘に座っていた。「俺ね、死んだときのこと覚えてるんだ」 健太は黙って聞いていた。「川に落ちて、流されて。必死で岸に上がろうとしたけど無理だった。体が冷たくなっていくのがわかった」 遼の声は静かだった。「でも不思議と怖くなかった。ああ、これで終わりなんだなって。ただ一つだけ後悔があった」「何?」「夏が終わっちゃうなって。まだやりたいことがいっぱいあったのに。まだ見たい景色があったのに。まだ誰かと笑いたかったのに」 遼は空を見上げた。「その思いが残ってたんだと思う。だから俺、消えられなかったんだ。四十年以上もこの村をさまよってた」「寂しくなかった?」「最初はすごく寂しかった。でも時間の感覚がなくなっていって。ただ夏の記憶の中を漂ってるような感じだった」 遼は健太を見た。「でも健太が来てくれて、俺はまた形を持てた。また誰かと話せた。また笑えた。これ以上の幸せはないよ」「俺も」 健太は涙をこらえながら言った。「俺も遼に会えて本当によかった」 二人は抱き合った。遼の体は冷たかったが確かにそこにあった。「ありがとう
一、盆踊り 八月十五日、村の盆踊りの日がやってきた。 村の小さな広場に櫓が組まれ、提灯が揺れていた。太鼓の音と盆踊りの唄が響いている。浴衣を着た人々が輪になって踊っている。 健太も祖母に浴衣を着せてもらい、祭りに出かけた。遼を探したが人混みの中では見つからなかった。 屋台が並んでいた。かき氷、焼きそば、金魚すくい。懐かしい祭りの匂いが漂っている。健太はかき氷を買って食べながら、遼を探し続けた。「健太くん、お友達と一緒じゃないの?」 祖母が聞いた。「友達?」「ほら、毎日一緒に遊んでる子。川の方から帰ってくるの見てたよ」 健太は答えに困った。遼のことをどう説明すればいいかわからなかった。「あの子ね、なんだか懐かしい感じがするのよ」 祖母は遠い目をして言った。「昔この村にいた子に似ているの」 健太の心臓が大きく跳ねた。「誰に?」「遼くんっていう男の子」 やはり。健太の予感は正しかった。「その子のこと教えて」 健太は思い切って聞いた。祖母は少し躊躇したが、やがて話し始めた。二、祖母の話 祭りの帰り道、祖母は昔話を始めた。「おばあちゃんがまだ若かった頃ね、この村に遼くんって男の子がいたの」 健太は黙って聞いていた。「とても不思議な子でね。この村のことを何でも知っていて、子どもたちの人気者だったの。秘密の場所をたくさん知っていて、みんなを連れて行ってくれたわ」 祖母の声が少し震えた。「でもね、ある夏の終わりに川で溺れて亡くなってしまったの。まだ十二歳だった」 健太は立ち止まった。頭の中が真っ白になった。「…&
一、雨の午後 ある日の午後、突然の夕立がやってきた。 二人は神社の軒下に逃げ込んだ。雨は激しく地面を叩き、雷が遠くで鳴っていた。神社の境内は無人で、静寂と雨音だけがあった。「夕立って好き?」 遼が聞いた。「わかんない。濡れるのは嫌だけど」「俺は好きだな。夕立の間って時間が止まってるみたいでしょ。どこにも行けないし、何もできない。ただ雨を見てるしかない」 確かにそうだった。雨音だけが響く中で、世界が静止しているようだった。「健太は東京に帰りたい?」 突然の質問に、健太は答えられなかった。「……わかんない」「そっか」 遼は雨を見つめていた。その横顔がなぜか大人びて見えた。「俺はずっとここにいるよ。この村から出たことない」「一度も?」「一度も。でもそれでいいと思ってる。この村には俺の好きなものが全部あるから」 健太は遼の横顔を見た。遼の目に何か寂しさのようなものを見た気がした。「遼には家族はいないの? 一度も会ったことないけど」 遼は少し黙ってから答えた。「……いないよ。ずっと昔から一人なんだ」「寂しくない?」「最初は寂しかった。でも慣れた。それに」 遼は健太を見て微笑んだ。「今は健太がいるから」 その言葉に健太の胸が締め付けられた。遼の孤独が突然理解できた気がした。この村で一人で過ごしてきた時間。誰かが来るのを待っていた時間。「俺もずっといられたらいいのにな」 健太は思わず言った。「でも無理なんだ。九月になったら東京に帰らなきゃいけない」「
一、出会い 翌日の午後、健太は村を探検することにした。 祖母に「川には気をつけるんだよ」と言われながら、麦わら帽子をかぶって外に出た。八月の太陽は容赦なく照りつけ、アスファルトが揺らめいて見える。でも木陰に入ると嘘のように涼しかった。 村は思ったより小さかった。商店が二軒、小さな郵便局、神社、寺。あとはほとんど田んぼと畑と民家。でも健太には新鮮だった。すべてが東京と違っていた。 田んぼの畦道を歩いていくと、やがて川に出た。それほど大きくない川だったが、水は透き通っていて底の石まではっきり見える。川辺には柳の木が並び、その影が水面に揺れていた。 健太は川辺に座って、流れる水を見つめた。水の流れを見ているとなぜか心が落ち着く。古代ギリシャの哲学者ヘラクレイトスは言った。「人は同じ川に二度入ることはできない」と。川は常に流れ、変化している。同じように見えても、もう同じ水ではない。時間もそうなのかもしれない。 その時だった。「何してんの」 声がして振り返ると、同い年くらいの少年が立っていた。 日に焼けた肌、少し長めの黒い髪。白いシャツに半ズボン、裸足。どこか懐かしいような、初めて会ったような不思議な感覚だった。「君、東京から来た子でしょ」「……うん」「知ってる。おばあちゃんの家に来てるんだよね。俺、遼」 少年——遼は川に石を投げた。石は水面を三回跳ねて、向こう岸近くで沈んだ。「この村のこと、俺が教えてあげるよ」 遼は振り返って笑った。その笑顔がなぜか夢で見たことがあるような気がした。でも夢の内容は思い出せない。「俺、健太」「健太ね。よろしく」 遼は手を差し出した。健太はその手を握った。遼の手は温かくて、確かにそこにあった。「今から面白い場所に連れてってあげる。ついてきて」 健太は少し躊躇したが、遼の笑顔を見ているとなぜか信じられる気がした。二人は川沿いの道を歩き始めた。「この村好き?」 遼が聞いた。「まだよくわかんない。昨日来たばっかりだから」「そっか。でもすぐ好きになるよ。この村はいいところだから」 遼の言い方には不思議な確信があった。まるでこの村のすべてを知っているような口ぶりだった。「遼はずっとこの村にいるの?」「ずっといるよ。生まれてからずっと」「学校は?」「……学校ね」 遼は少し考えるような表情をして、
一、東京を離れる日 一九八九年、八月一日。 十二歳の健太は新幹線の窓に額をつけて、流れていく景色を見ていた。東京のビル群が遠ざかり、やがて田園風景に変わっていく。隣に座る母は時折ハンカチで目元を押さえていた。 両親が別々に暮らすことになった。大人たちはそれを「距離を置く」と言ったが、健太にはその意味がよくわからなかった。わかっていたのは、この夏自分は祖父母の家で過ごすということ。そして九月になったら何かが変わっているということだけだった。 窓の外を入道雲が追いかけてくる。白く巨大な雲はまるで別の世界への入り口のように見えた。健太はその雲を見つめながら思った。あの雲の向こうには何があるのだろう。もしかしたら今と違う自分がいるのかもしれない。両親が笑顔で暮らしている世界があるのかもしれない。 量子力学の多世界解釈によれば、この世界は無数に分岐している。あらゆる可能性が実現した世界が並行して存在する。両親が離婚しなかった世界。自分が生まれなかった世界。すべてが完璧にうまくいった世界。そしてすべてが破滅した世界。 でも健太はまだそんなことを知らない。ただ漠然と感じているだけだ。世界にはもっと違う可能性があったはずだと。「健太、おじいちゃんとおばあちゃんによろしくね」 母の声で現実に引き戻される。「うん」「楽しく過ごすのよ。心配しないで」 母は笑顔を作ろうとしているが、その目は泣いている。健太は何も言えなかった。 新幹線を降り、在来線に乗り換え、さらにバスに揺られて二時間。景色はどんどん田舎になっていく。建物が少なくなり、田んぼが増えていく。山が近くなり、空が広くなる。 バスの窓から見える景色に、健太は不思議な既視感を覚えた。ここに来たことがあるような気がする。でもそんなはずはない。祖父母の村に来るのは初めてのはずだ。 心理学でいうデジャヴュ、既視感。脳が何らかの理由で「これは見たことがある」という誤った信号を送る現象だ。あるいは——夢で見た風景が現実と重なる瞬間かもしれない。 バスは山道を登っていく。カーブを曲がるたびに、谷底の川が見える。透き通った水が、太陽の光を反射してきらめいている。 そしてバスは、小さな集落に到着した。二、山あいの村 祖父母の家は山と山に挟まれた小さな村にあった。 バス停に降り立った瞬間、空気が違うことに気づい
四十歳になった健太は、ある夜不思議な夢を見た。 夢の中で彼は十二歳の少年に戻っている。見渡す限りの稲穂が風に揺れ、入道雲が空の半分を占めている。どこかで風鈴の音がする。遠くで誰かが呼んでいる気がして振り返るが、誰もいない。ただ風だけが頬を撫でていく。 目覚めたとき健太の目には涙が浮かんでいた。なぜ泣いているのか自分でもわからない。ただ胸の奥に夏草の匂いのような、甘く切ない何かが残っている。 その夜から健太は毎晩のようにあの夏の夢を見るようになった。 夢は断片的だった。川辺で誰かと笑い合っている場面。蛍の光の中を歩く場面。星空の下で誰かと語り合う場面。でも相手の顔はいつもぼやけていて、声も風に溶けて聞き取れない。 目覚めるたびに健太は思う。あれは本当にあったことなのだろうかと。それとも脳が作り出した架空の記憶なのだろうかと。 量子力学には「観測者効果」という概念がある。観測という行為そのものが対象の状態を変えてしまうという理論だ。もしかしたら記憶も同じなのかもしれない。思い出すという行為そのものが、記憶を変容させていく。何度も思い出すうちに記憶は現実から離れて、より美しく、より切なく、より夢に近いものになっていく。 健太の手元には一枚の写真があった。色褪せた写真の中で、十二歳の健太が麦わら帽子をかぶって笑っている。背景には田園風景が広がっている。でも写真には健太一人しか写っていない。 本当に一人だったのだろうか。 健太は写真の端を見つめる。まるでそこにもう一人誰かがいたような、切り取られたような空白がある気がする。 ポケットの中で何かが触れる感触がある。取り出すと小さな青い羽根だった。驚くほど軽く、風に飛ばされそうな羽根。これは確かに誰かからもらったものだ。でも誰から? いつ? 健太は目を閉じる。すると暗闇の中に光が見える。淡い月のような光。そしてその光の中に、ぼんやりとした少年の姿が浮かび上がる。 その少年の名前は——。 健太は必死に思い出そうとする。でも名前は霧の向こうにあって、手を伸ばしても届かない。 その夜も健太は夢を見た。今度は夢がより鮮明だった。川辺に立つ少年の姿が見える。日に焼けた肌、少し長めの黒い髪。白いシャツに半ズボン。その少年が振り返って笑う。 その笑顔を見た瞬間、健太の胸に激しい感情が押し寄せた。懐かしさ、切なさ